あ〜さんの音工房

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快晴で盛会

 

 連休明けに相次いだ電車の「人身事故」のニュースには減なりとした。この場合の「人身事故」とは飛び込み自殺を意味するものに他ならないからだ。7日、8日は2件ずつ以上はあったのではないのか。『TOKYO FM』の交通情報しかり、『湘南ビーチFM』に至っては曲中で電車の遅れを知らせる始末だった。そして、今日もまた「人身事故」の知らせを聴いた。
 この国は自殺者が3万人を切った事を大きく報じていたが、それは総人口の減により相対的に少なくなっただけではないのか。(こんな言い方はおかしいかもしれませんが)自殺可能者、自殺予備軍の比率になんら変わりはないのではないのか。
 連休明けの「人身事故」とは、例えばこんなことだろう。連休明けには必ず、とペンディングしていた物事がどうにもならずに飛び込んだ零細企業の社長。最後に作った思い出を胸に飛び込んだ学生・・・本当のところは知らないし、知りたくもない。この人達を愚か者と一蹴する事は容易いが、それで良いのか? 9時ー17時で働いているのに給与が足りずに深夜アルバイトする者、金銭的には十分だが常軌を逸した長時間労働で過労死する者が耐えないこの国のあり方はどうなのか? そもそも労働を主とした生存に意義があるのか?
 

 望まなくとも死は訪れる。今年もまた1人、不世出のギタリストが鬼籍に入ってしまった。パコ・デ・ルシアだ。スペイン人って長命なんじゃないのか。勝手ながら、この人こそ100才までステージに立っているイメージを持っていたんだが・・・。
 どうにも納得出来ず、受け入れ難い思いで日々を過ごすうちに5月11日を迎えてしまった。昨日は昨年亡くなった稲垣稔氏の追悼演奏会だった。今回は中野ギター工房が共催しているので、お姫様抱っこならおまかせでお馴染みの中野潤氏に招集されて、関係者としての参加となった。


 黒ぶち眼鏡に地味なスーツで弾いているイメージは流石にもうないだろうが、クラシックギタリストって、暗い人が多いのではと思っている人が、まだ多くいるのではないだろうか。実際にはそんな事は少しもない。確かに独特で、個性的な人達ばかりだが、誰も彼も人生を楽しんでいる人ばかりなのだ。それは、それは、羨ましいほどに。
 次々と登壇するギタリスト達は、まず構え方からして違う。これは流派を表しているにせよ、弾き出される演奏も当然違う。これだけ続けて見聴きすると、大変興味深い。
 デジカメを落として壊しても、お姫様抱っこは止めませんでお馴染みの中野氏から仰せつかった仕事は物販だったが、出演者が多い=品数が多いなので難儀した。開場間際になんとか陳列を終えたが、並べてしまえば後は口八丁手八丁で売るのみだ(良い意味でですが)。稲垣氏のディスクに関しては全て手元にあり、聴き込んでいるので何の問題もないし、他の出演者も事前にリサーチ済みなので(ネットの恩恵ですが)さらさらと口上が出た。通常は開演前より休憩時間が。休憩時間より終演後の売り上げが増すのだろうが、この日はイーブンに売れた。不思議だったが接客しやすく助かった。(無論1人で売ったわけではありませんが)おかげで入場者数からすればなかなかの売り上げになったと自負している。全ての出演者に売り上げを出せて良かった。それもこれも増税後にも関わらず財布の紐を緩めてくれたみなさんのおかげだけれど。
 終演後は裏方のお姉さん達に「普段は何してる人なんですか?」とか「業者の方じゃなかったんですか!?」とか言われる始末。普通のおじさんですよ、私。



 すっかり偉いさん慣れしてしまっているので、打ち上げ会場に演奏会を見届けに来た『現代ギター』の偉いさん達や、雑誌やディスクの中で接して来たプロギタリストの皆さん達がウヨウヨいようが、なんてことはない。レストランの綺麗なお姉さんにドギマギしてしまうのもいつものことだ。もちろんフランス料理の店で「大五郎(焼酎ですが)ください」と言うこともない。
 普通のおじさんである私は、週明けは普通に仕事なので早々にお暇させてもらった。22時近い夜道は冷んやりとした風が吹いていたが、私は良い心持ちで歩いた。出演者も多く長丁場ではあったが、どちらも楽しんだウィンウィンの演奏会になったと思えたからだ。そして、それは1人1人に稲垣氏を悼む気持ちがあったからではなかったのか。演奏した人々、集った人々の想いが、稲垣氏に届いただろうか・・・。
 

 それにしてもパコにしろ稲垣氏にしろ早い、早すぎる。人生の幕は思わぬ時に降りてしまい、本意ではないままに終わらざるを得ないらしい。だとするなら、やはり、楽しみたいものだ。この日会った皆のように。