あ〜さんの音工房

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再掲載祭り=2011年04月01日分

  

  アドリブ

 

 

  1 

 

 困った、どうしよう。

 村井奏太は楽屋で頭を抱えていた。人は困難に遭うと本当に頭を抱えるのだと初めて知った。

 音楽評論家伊藤春大がオールジャンルで独奏者を招集し「ソリストたちの競演」と題してこの夏にチャリティ野外フェスを企画した。クラシックギター奏者では奏太に声が掛かった。伊藤がギターを嗜むこともあって物心ついた頃からの知り合いだったし、近頃は会う度に「クラシックギターの未来は君にかかっているぞ」と肩を揉まれ続けているので不思議はなかった。

 

 村井奏太はギター教室を営む両親の元に長男として生まれ、記憶がない頃から弾きはじめたギターは音の出るおもちゃだった。朝起きる、歯を磨く、ギターを弾く。ギターを手にする事は日常の一コマで、なんら特殊なことではなかった。同じように記憶がない頃から教室の発表会にも参加していたので、ステージに立つのが当たり前のことだったし、どちらかと言えば拍手をもらえるので人前で弾く方が好きなくらいだった。

 子供の頃は両親の喜ぶ顔が見たくて弾いていたが、これが生業になるだろうと中学の頃には考えていた。そうなるに違いないと。

 小・中・高と国内最高峰のコンクールは全て制覇し、10代でメジャーレーベルからデビューした。もし予選落ちでもしたら大変だと関係者から止められた「トーレス国際ギターコンクール」で1位なしの2位を獲得したのが二十歳になる直前だった。国内に同世代のライバルは見当たらなかったし、自分の音楽が海外でも認められて大いに満足だった。やはり生まれながらのギタリストなのだと改めて思った。これで食って行くんだと踏ん切りが付いた。

 国際コンクールでの快挙はメディアの注目度も高く、新聞に「日本人初」と採り上げられもした。初めてテレビ番組に出演したのもこの頃だ。奏太の行く手は順風満帆のはずだった。

 夏フェスのギタリストチームは3人での出演に決まり、奏太の他に売り出し中のインストロック・ギタリスト桜田ゆめと、ジャズギターの大御所渡部ひろみが組むことになった。

 ゆめは、8歳の頃にYou Tubeで披露した「サーフィング・ウイズ・ジ・エイリアン」の演奏が神動画としてもてはやされ、以来度々メディアを賑わせ続けた言うなれば国民的アイドルギタリストだ。昨年高校を卒業してデビューしたばかり。まあまあ可愛い。

 渡部は泣く子も黙る凄腕で世界的な評価も高い。デビューは17歳。眩いばかりの才能で当時少なくない数のギタリストを廃業に追い込んだのは知らぬ者のいないエピソードだ。

 ゆめとは顔見知りだったが渡部とは今日が初対面だ。2人共アコギを弾くこともあって、いわゆるアンプラグドにしようと話が進んだ。夏になってもイベント等は電力消費量を考えなくてはならないだろう事が目に見えていたし、日暮れには終演して電力を食う照明の使用は極力避ける方向で企画自体が進んでいた。

 渡部はクラシック、ゆめはスチールを弾くのだが、マイクを立ててPA使うんだから、アコギでの演奏がどれほど省エネになるのかは疑問ではあるけれど、気持ちを表すことも重要だということになった。

 ユニット名は「ドリーム3」もちろん桜田ゆめの人気にあやかってのことだ。

 演目は、まず始めに大ヒット映画のテーマ曲。2曲目はモーツァルトの「トルコ行進曲」を三重奏編曲したもの。そして3曲目は渡部の代表曲「アドリア海の舞踏」に決まった。

「2回ずつソロ回してアドリブ合戦しようよ」

 奏太は真っ青になった。ブルックリン・スクール・オブ・ミュージックで学んだのでジャズプレイヤーたちに混ざって真似事をしたことはいくらでもある。しかし、1度たりとも満足できる演奏とは言えなかった。彼らの足下にも及ばなかった。留学で学んだ事は数知れず本当にここで学べて良かったと今でも思うが、アドリブだけが心残りだった。

「奏太くんはニューヨーク在住だもんね。アドリブ得意でしょ?」

「え、ええ、まあ・・・」黒人が全員踊れると思うなよ。仲間内で遊んだ事はあってもステージでは披露した事すらない。ましてやアドリヴ・マイスター渡部と競演するなど考えただけで手が竦んでしまう。

「あたしも得意でっす」ゆめがしれっと言う。まあまあ可愛い。

 どうしよう。どんなに複雑な曲でも初見で弾く自信はある。楽譜に書かれているのなら何だって弾いてみせる。アドリヴ出来ないのではない。ただ、自身で納得する演奏ができないだけだ。しかし、どうにも不安で仕方なかった。ましてや「クラシックギターの未来は君にかかっている」のだ。数万人集まる野外フェスで(ディスク化も決まり、同時配信することも検討中)ベテランと新人にやっつけられる訳には絶対にいかない。どうしよう。

 誰もいなくなった楽屋で奏太は頭を抱えた。胃がきりきりと痛む。

 

   2

 

「奏太くん、聞いたよ。渡部さんと競演するの。ゆめちゃんも一緒なんですってね、スゴーイ」

 同じ事務所のフルーティスト松崎友美だ。25歳。2つ年上。とても可愛い。

「ええ、まあ。伊藤さんの企画ですから。てか友美さんも呼ばれてるじゃないですか」

「うん。楽しみにしているの」ゆる巻きのセミロングが小首を傾げるのにあわせて、ふわっと揺れる。「だって駒木野グランドホテルに泊まれるんだもん。うふふ」

 東京からほど近い「UFOの里・駒木野」では町起こしとして積極的にイベントを誘致していて、昨年オープンしたばかりのグランドホテルは少なからぬ話題になっていた。

「よっ、クラシック代表。がんばってね奏ちゃん。楽しみにしてるからね」

「よして下さいよ。大げさなんだから」

 CDショップの狭い事務室から出て行くのを手を振って見送ると、暫くして司会者が友美を呼び込む声が聞こえた。今日はミニコンサートと言う名の営業だ。この時勢だがクラシックファンは購買層の年齢が高い事もあり、CDをはじめとするパッケージメディアはコンスタントに売れている。しかし、それにあぐらをかいてはいられないのだ。同世代にアピールするためにはこの手の顔の見える営業は欠かせない。もちろん演奏の後はトークショーとサイン会がセットだ。奏太の出番は次。出来ることなら友美の伴奏もしたかったが、音大の同期がピアノで付けている。奏太はステージの脇から覗いた。

 久しぶりに会った友美は相変わらず可愛い。フルートの上にちょこんと乗ったまるっこい鼻も愛らしさを2割増にしている。天真爛漫な明るい性格だが、どれだけ今風に振る舞おうと育ちの良さは隠せない。下町育ちの奏太にはそれだけでも魅力的だった。いつかは彼女のフルートになりたい。いやいや、伴奏をしたい。なんなら一緒にツアーに出たい。しかし、困ったのは夏フェスだ。彼女の目の前でボコボコにされるなんて論外だ。出来る事ならいいとこ見せたい。

 そうだ、いっそのこと予め自分のパートを書いてしまおう。それを暗譜して弾けばいいじゃいか。いやいや待てよ。少なくても本番前にもう1度は3人で顔を合わせるし、その時弾いてみようってことになるだろう。もちろん当日の本番前にもリハーサルは有る。となると、都合3回はアドリブする機会があるってことだ。3パターンも作曲しておくのは無理があるし、ゆめはとにかく渡部がそれを聴いて気が付かない訳がない。ダメだ。

 

 奏太は事務室に戻ると、暗澹たる心持ちで机上に突っ伏し頭を抱えた。友美の髪が振り撒いた残り香が甘い。本当にフルートになれたらなと、半ば真面目に思った。

「ああ、困ったな」

 ため息まじりに声を漏らすと、ぼんやりと視線を宙に泳がせてみたが良い考えは何も浮かばない。なんだか熱っぽいと思った途端、呼吸が苦しくなり胸がむかついて来た。ハアハアと声を上げて喘いでいる自分がいた。

 奏太は事務室の洗面所で吐いた。

 

   3

 

「中田さん、すみません。他に頼れる人がいなくて」

 世田谷にギター工房を構える中田潤一郎との新作の打ち合わせに来た奏太は、コード進行を書いておいたメモを渡すと弾いてくれるように頼んだ。

 中田と知り合ったのは5年ほど前だ。既成概念にとらわれずに「現代のギター」を追求する姿勢に、自らも新たなギタリスト像を模索していた奏太は共感した。今では製作家と演奏者を超えた友情で結ばれている。

「こんなこと誰にも話せませんよ」奏太は泣き付いた。

「構わないけど、アドリブって好きなように弾けばいいんだから練習しても仕方ないんじゃないの?」

 中田の言う事はもっともだが、練習せずにはいられなかった。

 奏太は場数の少なさが問題なのだと判断していた。とにかく反復練習が必要だ。正しい練習が結果を生むのだ。これまでもそうして来た。練習は裏切らない。「アドリア海の舞踏」のコード進行でくり返し弾き続けていれば、必ず満足行くレベルまで到達出来るはずだ。

「じゃ、いいかな」

 中田はマグカップを置くと、修理を終えたばかりのギターをつま弾きはじめた。左手の押さえが弱いので時折ビリつくが、十分弾けている。演奏者との距離を縮めたいと演奏にも熱心に取り組んでいるだけあってハイアマチュアと呼んで差し支えない腕前だ。ありがたい。

 目を閉じてイメージしてみる。渡部の演奏を聴き込んでしまったせいか、それが見え隠れしてしまいどうも思わしく無い。メロディーをイメージ出来ればそれを音化することは容易いが、こんなに考え込んでいてはダメだ。大体この曲は転調が多過ぎる。部分転調を繰り返して主調に戻るけれど、ここをもっと簡略化してみるか。

「すみません、これで」と書き換えて渡す。中田は一瞥すると軽やかに弾きだした。

 再びイメージしてみる。おお、いいぞ。さっきよりは。しかし頭の中を飛び回るフレーズがどうもありきたりだ。ジャズ寄りにするのはよろしくないよな。やはりクラシックのテイストは出しとかないと。それを求められているはずだし。うーん。

「奏太くん、弾いて、音出して」中田が促す。

 それはそうなんだけど、このまま弾いてもなぁ。上手いこと弾ける気がしない。そうだ、いっそのこと最小単位まで簡略化してみたらどうだろう。

 奏太はほとんど3コードにしてしまい、アドリア海のアの字も無くなったコード譜を渡した。

「弾くよ、弾くけどさぁ、奏太くんも弾いてよね」中田は苦笑いしながら弾き始める。そうだよな。迷ってばかりいても仕方ない。奏太は覚悟を決めて弾弦した、が、音が遅れて出て来た。

 アレアレ、オカシイナ。指先がまるで別の生き物のように言うことを聞かない。それどかろか腕が、肩が、動きを止めていた。

「もっと自由にさ、思い付いたフレーズを・・・」

 中田の声が聞こえなくなって行く。奏太はまじまじと右手を見つめた。こんな事は初めてだった。頭が真っ白になる。ハアハアと苦しげな自分の呼吸音だけが、部屋中を覆い尽くしていた。おくびがでる。体の中で昼に食べたデリバリーピザが唸りを上げている。トイレに駈け込みしこたま吐いた。

 

   4

 

 翌日、奏太は伊良部総合病院の地下に通じる階段を降りていた。見かねた中田がここを紹介してくれたのだ。

「フラメンコギタリストの知り合いがさ、あ、アマチュアだけどね。その人の奥さんが以前心因性の嘔吐症で通院したことがあったんだって。そこへ行ってごらんよ。その奥さん作家なんだけどね、他にも有名人が世話になってるらしいからさ」

 カウンセリングはアメリカでは当たり前のことだし、友人たちからそんな話も聞いているので迷いはなかった。中田の紹介なら安心できる。

「いらっしゃーい」薄暗い廊下の先にあるドアをノックすると能天気な声が響いた。

「失礼します」恐る恐る中へ入ると丸々とした白衣の男が手招きしていた。「医学博士・伊良部一郎」と胸のフレートにある。伊良部か・・・若先生なのかな。

「村井くんだね。受付から聞いてるよ。ギタリストなんだってね。典型的なイップスだね」

「はあ・・・」

 それを考えない訳ではなかった。体が考えと反した動きをしてしまうのだから、そうかもしれない。でも、トラウマになるようなミスは思い出せなかった。

「じゃあ違うかもね、あはは」

 この先生で大丈夫だろうか。不安がよぎる。

 世間知らずを自認する奏太だったが、こんな不思議な生き物が日本にいるとは思ってもいなかった。もちろんニューヨークでも見た事はない。なんと表現すればいいのだろう。カバとトドを合わせたようなというか、だらしのないポルコ・ロッソというべきか・・・短い足を無理に組んだ目の前の生き物が、医学博士だとはとても思えない。大丈夫か日本の医学界。

「とりあえず注射打とうか。おーい、マユミちゃーん」

 奥のカーテンが開き、ミニスカ看護士が姿を現した。注射針の先がキラリと光る。

 断る間もなく左袖を捲られて押さえ込まれたので身動きがとれない。カウンセリングはしないのか。いきなり注射って。

「大丈夫、心配いらないよ。うちの注射は初回サービスだから」

 意味がわからない。

 無表情で腕を消毒するマユミのスカートの裾から太ももが丸出しになっている。ありがたい。いやいや突然の事に自分の息使いが聞こえるほど焦ったが、それを上回るほどハアハアしている奴がいる。伊良部だ。伊良部がいつの間にか右側から覗き込んで鼻の穴を大きくしている。なんなんだ、この人は。

「ちょっと、先生、離れてもらえますか」聞こえないのかポルコは血走った目を大きく見開いてフガフガしている。頭がくらくらする。ホントにここは総合病院の神経科なのか?コミケのコスプレ用更衣室じゃないのか?帰りに確認しようと心に誓った。

 なぜか注射の後から始まったカウンセリングで、奏太はこれまでの経緯を話した。アドリブをしようとすると体が動かなくなること。それがプレッシャーなのか何度か嘔吐したこと。夏フェスはそこまで迫っていること。

「あんまり考え過ぎちゃダメだよ」

「はあ」そうも言ってられないんですけど。

「泳げない子がさあ、プールの時間の前に熱出したりお腹痛くなったりするじゃない?あれと同じだよ」

 そうかなぁ。

「それより、ギター教えてよ。ぼく、前に友達んちで弾いてみた事あるんだよね。絶対得意なはずだ」

 どこから来る自信なんだよ。

「弾こうにも肝心のギターはどこにあるんです?」

「えー、ギタリストなのにギター持って来てないのー」

 伊良部は短い足を投げ出してバタバタした。

「用もないのに持ち歩きませんよ」当たり前だろ。

 ここにいても仕方がないので奏太は帰り支度をはじめた。

「じゃあ、ぼくギター都合しておくから、また明日ね。奏太くんもギター持って来てね」

 退散しようとする背中越しに伊良部の声が飛んで来た。

「・・・また明日、ですか?」

「うん。注射を打たなくちゃね。継続は力なりだよ。ぐふふ」

 夏フェスまで2週間を切っている。奏太の足取りは重い。

 

   5

 

「いらっしゃーい」他に頼りもないので来てしまった。

 朝歯磨きしながら鏡に映った自分の顔を見たら、そうせずにはいられなかった。ここ数日でどう見ても5歳は老けている。

 持って来たギターを置き、スツールに腰かけた。

「じゃあ注射ね。マユミちゃーん」

 納得は行かないが、そうしないと話が進まない事だけは昨日知った。奏太はされるがままに腕を注射台に置いた。マユミの太ももは今日も全開だ。それだけはありがたい。

「さあ、射して。そうそう」

 カバトド先生の目も全開だ。今にもこぼれ落ちそうなくらい見開いてフガフガ鼻を鳴らしている。わけがわからない。

 儀式が終わると伊良部は「ギター、ギター」としばらくゴソゴソしてから満面の笑みでギターケースを抱きかかえて出てきた。

「ギターってケースに入れて保管した方がいいんだってね」

 買ったんだ、本当に。

「一番高いケース下さいって言っちゃった。あはは」

 げっ、これって最近イタリアから入って来たばかりのプルコ社のやつじゃないのか?

「ギターケースも進化してるんだね。カーボン製だって。カッコいいなあ」

 売値で10万は下らないぞ。金もってんだな、医者って。てことは中身は・・・

「ねえねえ、ぼくのギター凄く良い音するんだよ」ケースに頬ずりしながら伊良部が言った。

「どんなのですか。見せて下さいよ」

 100万クラスの手工品だな、きっと。初心者にはもったいない。

 伊良部は診察台に置いたケースから無造作に取り出すと歯茎を見せて笑った。

「じゃーん」

 姿を現したそれは新品ではなかったが、中古と呼ぶには風格があり過ぎていた。

 奏太はハッとして目を凝らした。そのヘッド部の形状には見覚えがあった。

「先生、ちょっと見せて下さい」

 返事を待たずに奪い取ってサウンドホールの中のラベルを見た。

「・・・Bauer、バウアー2世じゃないですか!」

 奏太は魂消た。近代ギターの最重要製作家レオポルト・バウアー2世の作が何故ここにあるのだ。てか、なぜこの人が持ってんだ・・・

 

 アントニオ・デ・トーレスの直弟子バウアー1世から全てを学んだその息子は「20世紀のトーレス」の名を欲しいままにした伝説的な製作家だ。生涯制作本数は249。200本以上の消息が確認されナンバリングされているが、そのうちの演奏可能本数は80を切っている。夭折した為に跡取りはおらず、1世の作は博物館にしかない。そのバウアー2世が今、この手にあるのだ。これほど状態の良い個体は初めてだ。

 咄嗟にこのギターを守らなくてはならないと思った。それは子供を守る親の本能に近いのではないかと思えた。なんとしてもこの男から引き離さなくては。

 

 それにしても、どこで手に入れたのだろう。東京でもこれほどの名器を取り扱える店は限られている。

「先生、このギターどこで買い求めたのですか?」

フォルテシモ楽器だよ。下北沢の。一番高いのちょうだいって言ったんだ」

 この業界で知らない人はいない店だ。あのオヤジめ、何故売った。切羽詰まってたんだろうか。

「ねえねえ、奏太くん。弾いてみてくれない?いまひとつ弾きこなせなくてさ」

 あんたにゃ一生かかっても無理だよ、と口に出しかけて飲み込んだ。こんな機会は滅多にない。断る理由は見当たらなかった。

 奏太は糸巻きをねじりチューニングを始めた。診察室は適度にライブで響きが良い。楽しい時間になりそうだ。

 軽やかに指先が動くとメロディーが溢れ出た。「ヘンデル主題による変奏曲」古典派変奏曲の中でも香り高い名作として知られているジュリアーニの作だ。全日本学生ギターコンクール小学生の部の決勝で弾いた想い出の曲だ。変奏曲の課題で他のすべてのライバルたちがソルの「魔笛」を弾く中で、ただ一人この曲を格調高く弾き上げて、審査員の満票を集めて優勝したのだった。

 バウアー2世は決して大きくはないが良く通る音色で、やさしく胸の奥に染み込んで来る。これこそがクラシックギターの音色だった。松の表面板が響かせた音楽は診察室に降り注ぎ、伊良部はうっとりと目を閉じている。寝転んで「ロッキンオン」を読んでいたマユミも、いつの間にか体を起こして聴き入っていた。普段は競技車のような楽器を弾かざるを得ない奏太も弾きながら酔った。

 終止の和音が消え入る前に4つの手のひらから熱烈な拍手が沸き起こった。

「すごいね奏太くん、ギターって素晴らしいね!」

 伊良部は奏太の両手をとってブンブン振り回し、マユミは手を胸の前で組んで、しきりに頷いている。悪い気はしなかった。

「これにして良かったー。ねえ早く教えてよー」

 天下の名器がベタベタした手で弄ばれている。一刻も早く取り上げなくては。心配事が増えた。

「ところで奏太くん、独奏は出来るんだね。デュオはどうなの?」

「大丈夫です」中田に相手をしてもらって確認済みだ。アドリヴしなければ問題ない。

「そうなんだ。作曲はしたことある?」

「え、ええ、先日もNHKの紀行番組『日本サイクリング列島』のテーマ曲を・・・」

「だったらアドリブ出来るでしょ」

「はあ・・・」何が言いたいのか量りかねた。

「だって、アドリブって大急ぎの作曲でしょ?」

 考えたこともなかったが、言われてみればその通りだ。少し先を見据えて瞬間的に考え、瞬間的に弾く。大急ぎでの作曲と言えなくもなかった。

 この医者、意外と鋭いのかも。まさか「刑事コロンボ」タイプなのか。見た目や言動で油断させておいて実は切れ者、みたいな。奏太は目の前のカバとトドを足して2で割った足の短い生き物をマジマジと観察した。

「まあ、いっか。それよりギター教えてよ。約束しただろお」

 よかないだろう。ここは診察室のはずだ。だが爛々と目を輝かせている伊良部を見ると、断ることが無意味だと分った。

「これ見て。この方が体がねじれなくていいからってギター屋さんが売ってくれたんだよね」

 余計なことを。フォルテシモのオヤジのやつ、ギターレストまで抱き合わせやがって。装着部の塗装が傷むじゃないか。

 奏太は渋々ギターを取り出した。

 

   6

 

 夏フェスが今週末と迫ったこの日、3人は渡部の出番前にここ「クリアレモンホール」に集合して合わせる予定だったのだが、ゆめのスケジュールが獲れずに今日の練習は無しになった。なので奏太は安心して顔を出したのだが、通された楽屋に入るなりなぜかゆめが奏太さーんと駆け寄って来た。悪い気はしないので、取りあえず褒めてみた。

「ゆめちゃん、可愛いワンピースだね」

 奏太には軽口を叩く余裕があった。本質的には何も解決していなかったが難題が延期になったので、ゆめに感謝したい思いだった。

「わかりますぅ。さっきまでグラビア撮ってたんですよぉ」

「ヌードかい?」

「やだぁー奏太さんたらぁ」

 シナを作ると、ゆめは勿体ぶりながら言った。

「実はぁ、『パンプス』と対談してたんですよぉ」

「パンプスって韓流アイドルグループの?」

「そおでーす」

 若干だが羨ましい。奏太は右から2番目が定位置のユミンが気に入っていた。

「渡部さんご存知ですか、パンプスって」

 美脚の6人組だと解説してみた。

「うーん、最近話題になっている何組かの内の一つかな?」

 さすがに詳しくは知らない様だった。

 しかし、売れてるな、ゆめは。練習なくなったってことは、今日この後もスケジュールが詰まっているってことだよな。

「ゆめちゃん、この後も何かあるんでしょ」

「うん、ミュージックジャンプの生放送」

 うげぇ、中央テレビの看板番組に出るのか。そりゃリハを飛ばすわけだ。

「マジで?すごいんだね」

「そんなことないですよぉ。てへぺろ

 なんじゃ、そりゃ。てへぺろと口に出して言う人を初めて見た。

 今日は本当にごめんなさーいと愛想を振り撒くゆめを2人で冷やかしていたら「ゆめちゃん、そろそろ」と金髪スーツがドアを開いた。マネージャーだ。

 ゆめは一体どこへ行ってしまうのか。他人事ながら心配になった。

 ばばぁーい、と手を振りながら出て行くゆめに「ちゃんと練習しといてよ」と見送ってしばらくすると渡部とふたりきりになってしまった。嫌な予感がする。話をそらそう。

「しかし凄い数の花ですね。どこもかしこも良い香りで。ロビーの方からずっとですよ」

「そう?毎回こんな感じだけど」

 さすが大御所。だけど演歌の大御所は輪をかけて凄いんだろうな。見た事無いけど。

「ところで奏太くん、せっかくギター持って来てるんだからジャムろうよ」

 こっそり隅に置いといたのにバレてたか。

「いや、実はこれから修理に出す所なんです」嘘をつくのは心苦しいものだ。

「そうなの、フェスに間に合う?」

「御心配なく。大丈夫です」壊れてないからね。

 精一杯の笑顔で受け答えしていたが、まただ。また息苦しくなって来た。早いとこ退散しよう。まずい、おくびまで出て来た。なんだか酸っぱいぞ。

「じ、じゃあ、ぼくもこの後アレがアレなんで。し、失礼します!」

 自分でもわけの分らない言葉を残して奏太はギターケースを掴むと、楽屋から転がり出た。渡部が何か言ったようだったが聞こえはしなかった。

 朦朧とする意識の中で階段を登りながら、必至に頭を回転させた。やっぱりダメだ、このままじゃ。どうする?どうしたら良い?

 足はいつの間にか伊良部総合病院に向いていた。

 

   7

 

「いらっしゃーい」

 三枝かよ、と突っ込む気力はとうに失せていた。もちろんYes・No枕を探したりもしない。もうここにしか拠り所はないように思えた。

 奏太は自ら袖を捲って注射台に腕を置くと「マユミさーん」と呼んだ。「注射お願いしまーす」

 慌てたのは伊良部だ。

「奏太くんダメだよぅ。それ、ぼくのセリフじゃない。やり直しね。マユミちゃーん、注射お願いねー」

 マユミはアンプルをパキッと折ると・・・あとは大体いつもの感じだ。

「先生、もう時間がないんです。なんとかして下さい!」

 奏太は伊良部にすがった。時間的にも精神的にももう限界だった。

「考え込んじゃダメだって言ったじゃない。直るものも直らないよ」

「ですけど」

「なにもアドリブ出来なくたって命取られるわけじゃないんだからさ、気楽に行こうよ」

 そう言うとバウアー2世を取り出し、でっぷりとした腹の上に乗せた。良かった、まだ壊してはいないようだ。

「ところでさ、ぼく、バラの歌を弾きたいんだよね」

 そう言うと伊良部は楽譜らしき物をペラペラとめくり始めた。

 薔薇の歌ってなんだろう?シューベルトの「野ばら」か。スティーブンソンの「夏の名残のばら」だろうか・・・いずれにしてもギター用の編曲など聞いたこともない。

「あったぁ。これこれ。サビがいいんだよね」

 伊良部が歌い出した。

「ばぁーらぁよぉ、ばぁーらぁよぉう」

 奏太は膝から崩れ落ちた。目の前の生き物は天下の名器バウアー2世をかき鳴らしながら「バラが咲いた」を弾き語りしている。楽譜だと思っていた物は雑誌の付録の歌本だった。さらに追い討ちをかけるようにマズい事に気が付いた。

「先生、待って、待って下さい!」

 奏太は丸まると太ったマイク真木からギターを取り上げた。

「ゆ、指を見せて下さい」

「なんだよーぉ。良いとこだったのに」伊良部は下唇を突き出しながら右手を前に放った。

 思った通り伊良部の爪は何の手入れもされていなかった。この状態でジャカジャカされたのではたまったものではない。前回は嫌々教えていたせいで気が回らなかった。

 このままでも表面板まで傷つく事はないだろうが、せっかく残っている貴重なオリジナルのニスが剥がれたら大変だ。なんとかしなくては。

「分りました、先生。なぜ良い音で弾けないのかが」

「え、どういう事?」

「爪ですよ、爪。爪はきれいに切らないと良い音にならないんですよ」

「そうなの?でも奏太くんは伸ばしてるじゃない。なんで?」

「ぼくはプロだから渋々なんですよ。爪がないと対応出来ない曲があるんですもん。ぼくだって本当なら切ってしまいたいですよ」

「へぇー、そうなんだ。じゃあ切ろうかな」

 しめた。「先生、まかせて下さい」そう言うと奏太は自分のネイルセットを取り出した。「さあ、注射台に手を乗せて」

 伊良部の指は短くて柔らかく、ふわふわとしていた。ドラえもんに指が付いているとしたらこんな感じだろう。左の親指の爪だけが深爪になっている。どうやら噛む癖がようだ。まったく、子供じゃあるまいし。

 奏太は丁寧に全ての指先を念入りに研いだ。再び伸びるまでになんとしてもバウアー2世を取り上げなくては。

「わーい、ありがとね。ぐふふ。それじゃこれから街に繰り出してストリートライブだー」

 えーっ。

「気分を変えた方がいいからさ」

 うーん。気乗りがしなかった。

「練習の成果を見せてやるぞ」

 伊良部の鼻息は荒い。

「さあ出かけるよ。奏太くん、早く早くぅ。マユミちゃん、今日はもう閉めちゃってね。よろしくー」

 伊良部は奏太の手を引くとドアを勢いよく開けて外へ連れ出した。「これ、奏太くんのね」途中で折りたたみ椅子を持たされた。

 

 それにしても伊良部の上達の速さは意外だった。ジャカジャカとストロークをする以外にも、先日は3本指でのアルペジオやセーハの押さえも難なくこなしていた。弾いてみせると、うん、わかったと何の迷いもなく同じようにこなしてみせるのだ。その様はまるで子供そのものだった。

「わーい、できた。あのさあ、左手の押さえを素早くする方法ってある?変えるとき間が開いちゃうんだよね」

 それは学習者誰もがぶちあたる難関だった。一拍ごとに流れる和声などプロでも厳しいものだ。実に的確な質問に驚く。

「そうですね、まずは次にどの音を押さえるのかをしっかりと覚える事ですね。迷っていたら押さえようがありませんから」

「なるほど」

 自主的に買い求めた、いやいや正確にはフォルテシモ楽器のオヤジに抱き合わせで買わされたカルッリの練習曲集をしばらくじっと見つめると、伊良部は覚えたと言うや否や楽器を構え、アルペジオしだした。

 ゆっくりとではあるが最後まで弾いてのけると、こちらを向いて歯茎を見せた。

 この人、一体何者なんだ?

 前回の帰り際の事である。

 

   8

 

 陽の落ちた駅前は、すっかり薄暗くなっていた。省エネの為消してあるコンビニの看板を脇にどけると、伊良部は運んできた椅子をここに置くように促した。そこは道路より一段高くなっていて、ステージに見えなくもなかった。

「さてと、とりあえず何か弾いてお客を集めてよ」

 断るとみっともない事が起きるのが目に見えているので、奏太は「タンゴ・アン・スカイ」を弾く。万人受けする小品だ。もう、どうにでもなれだ。

 たちまち行き交う人々が足を止め出した。そりゃそうだろう、プロが弾いてんだから。

 終止の和音を派手目に決めると30人ほどから拍手をもらった。一応立礼すると後方で「キャ」と声が上がる。

「村井奏太じゃん、うそーぉ」

 バイオリンケースを背負った学生が、目を丸くして口を押さえている。まるっこい鼻が友美を思わせた。

 奏太が街中で「バレる」ことは滅多にない。人気バンドのギタリストなら珍しくないのだろうが、奏太はギターケースを持って歩いていても、まずバレなかった。気楽で良い反面この状況はなんとか打開したいと思っていた。クラシックギターはメジャーになるべき楽器だ。伊藤の言葉が思い浮かぶ。

 ざわつく周囲を尻目に「フォーコ」を弾く。同じくディアンス作「リブラ・ソナチネ」の終楽章だ。この曲は中学生の時分から弾き続けている十八番中の十八番だった。

 奏太は思った。今ここにいる人々は、ほとんどがクラシックギターを聴いた事がないのだろう。生演奏に接することなど初めてのはずだ。よし、魅せてやる。奏太の演奏が熱を帯びた。

 息を飲んで見つめるギャラリーは、ギターを打楽器のように扱う結尾部に開いた口が塞がらない。奏太の動きが止まると嵐のような拍手が巻き起こった。あちこちからおぉ、と声が上がり口笛が飛び交う。

 してやったり。奏太は満面の笑みで一礼した。

「続きまして、ぼくの歌をお聴き下さーい」伊良部が割って入って来た。いたんだ。すっかり忘れていた。

 伊良部の短い指がアルペジオを紡ぐ。50人の面前で全く臆さない。たいした度胸だ。

「かーなーしみぃーにー、であうたびーい」

 聴いた事のある曲だった。確か随分昔のドラマの主題歌だったような・・・ミディアムテンポの懐かしいメロディーに誘われて、知らず知らずのうちにオカズを入れていた。

 奏太は留学中にユニオンスクエアで仲間たちと演奏したのを思い出していた。楽しかったな、あの時は。30分も経たずに小遣いが稼げて、飲みに繰り出したものだった。

 2コーラス目が巡って来ると対旋律を付けてみた。我ながらいい感じで弾けている。

 いつの間にか100人近いギャラリーが2人を取り囲んでいた。伊良部の下手ではないが上手くもない歌声が辺りを震わせている。

 気分良く歌い上げて満足そうな伊良部が、こちらに視線を投げた。

 奏太は自然と間奏を弾いていた。オリジナルがどんなものかは知らないが、勝手に指先が動いた。

 そうか、こういうことなのか。自分は今、自由に弾いている。アドリブしている。

 胸の辺りでパチンと何かがはじけて、夜空に散って行くのを感じた。

 曲が終わると失笑まじりの拍手の中、伊良部が肩を揺すった。

「出来るじゃない、奏太くん」と伊良部。

「はい、ありがとうございます!」

 奏太は携帯電話を取り出すと短縮ダイヤルを押した。

「もしもし、中田さん。これから行っても構いませんか?」

「どうしたの、急に。もしかして例の件かな。切っ掛けでもつかめた?」

「そうなんです。イケそうです」

 自分でも声が上ずっているのが分った。

「そう、じゃあコーヒー豆挽いて待ってるよ。一緒に飲もう」

 奏太は伊良部にもう一度礼を言うと手早くギターをケースに押し込み、ギャラリーをかき分けて駅に走った。

「待ってよーぉ。ぼくたちのストリートライブはこれからだろー。奏太くーん」

 商店街にカバトド先生の声が響いた。

 息を弾ませながら電車に飛び乗ると、ドアのそばの手すりにつかまった。なんだ、弾けたじゃないか。なぜあんなにも悩んでいたのだろう。もう怖くないぞ。「アドリア海の舞踏」だろうが何だろうがドーンと来いだ。

 石橋を叩き壊して渡れなくなるような性格も、この機会に変えてやろう。何事も構え過ぎることはないんだ。いろんな事に挑戦してやる。そうだ、フェスの時友美を誘ってみよう。断られたって良いじゃないか。なにも命まで取られるわけじゃないのだから。

 ドアが開くと電車はサラリーマンを飲み込んで日常を続けて行く。奏太はギターケースを抱き寄せると例の曲を脳内再生してみた。軽やかにイマジネーションが溢れ出て、全身を包み込んで行く。

 弾けるぞ、自分らしく。

 車窓に映った奏太の顔は晴れ晴れとしていた。思わず微笑むと、後ろの背広が怪訝そうな顔をした。歯茎全開で笑い返してやった。

 

 

 

 おわりに

 

 奥田英朗氏の人気作「伊良部一郎シリーズ」のシチュエーションとパターンを借りて短編小説を書いてみました。ご本人の新作ではありません。エイプリルフールってことでお許し下さい。

 昨日はなごり雪だったのか、一転して今日は青空の眩しい一日でした。長かった冬の終わりを告げるような暖かな日差しでたけれど、それでもまだ気分の晴れない方も多いのではないかと察します。

 私にはスポーツ選手や著名人のように多額の義援金を贈る甲斐性などありませんが、時間と労力を割いてこの小説を書き上げました。元気を失ってしまったみなさんに贈らせて下さい。楽しんでもらえたなら幸いです。

 最後まで読んで下さってありがとうございました。