あ〜さんの音工房

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再掲載祭り=2014年02月12日分

 

 セラへリーア通り32番地の邂逅

 

「お仕事中失礼します・・・」

 開け放してある工房の入り口から顔を覗かせると、マルチネス夫人はギター作りに声をかけた。側板を削いでいた男は、振り返ると声の方を見やった。

 大抵はむさ苦しい男たちが屯しているアントニオ・デ・トーレスの工房に、女性が訪れるのは珍しい。声の主は小柄で身なりが良かった。

ごきげんよう、セニョール。この子に1本欲しいのですが」

 恐る恐る伺う婦人の傍らに佇むひょろりとした少年は、色白で質素な身なりをしていた。珍しいのか工房の中を見回して落ち着きがない。しきりに眼鏡を押さえていた。

「これはこれは、セニョーラ。気が付かずに失礼しました。どうぞ中へお入り下さい」

 トーレスは椅子の木屑を払うと、2人に勧めた。

「さあ、お掛けになって下さい。コーヒーを淹れましょう」

 身なりの良い夫人と好奇心旺盛な少年を残して、トーレスは湯を沸かしに消えた。

 

「パコはそれはもう、将来有望なんですの」

 出されたカップに口をつけるのももどかしく、マルチネス夫人はどれほどこの少年が優れた音楽家であるかを語った。既に数人の後援者がいて、著名なギタリストであるフリアン・アルカスの紹介で訪れたのだと言ったが、トーレスはいわゆる天才少年にはいつでも懐疑的であった。努力もなく花開く才能などありはしないと知っているからだ。

「お若いの、歳はいくつかな?」

「17になりました」

 トーレスは立ち上がると、工房の隅に吊るされていた1本の楽器を取り上げた。

 それは出戻って来た楽器だった。1度は売れたものの支払いが滞って返されたのだ。上等ではない材で作られ、どんな弾き方をしたのか表面板には傷が目立ち修理が必要な状態で、このままでは売り物にならない代物であった。

 それでも受け取った少年は目を輝かせ、眼鏡を押し上げると調弦を始めた。現在どんな楽器を使っているのかがそれで知れた。

 調弦を終えると少年は様々なポジションで和音を響かせ、どれだけ音量があるのかを試し、潰れないフォルテシモを確かめているようだった。やがてスケールを弾きだしたが、緩急強弱をつけて全てのポジションを駆け巡る様は見事という他なかった。

 それを横目にしながら少年のパトロンと現実的な交渉をしていたトーレスだったが、フェルナンド・ソルの作品11からイ長調アルペジオ部分が鳴り出すと、堪らず少年に向き直り「お待ちなさい、お若いの。その楽器はあなたに相応しくない」と言い残すと工房の奥へ姿を消した。

 ただ上手く弾いているだけではない。あの様子はただ事ではないぞ。未来のマエストロにあんな楽器は持たせられない。アントニオ・デ・トーレスの名が泣く。この少年はそこらの天才少年とは訳が違う。そうトーレスは直感した。

 切り出した材の置き場に秘蔵してあったそれを、埃を被った重い木製ケースから取り出したトーレスは、両手で抱えて戻るとうやうやしく少年に授けた。

「あなたに相応しい楽器はこれだ」

 

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 一見シンプルに見えるが手の込んだ装飾。駒には貝が散りばめられ、サウンド・ホールには木製トルナボスが装着されている。横・裏板に美しいフレイム・メープルが採用された気品漂う姿は、まだ昇り切らない陽光を受けて神々しくさえある。それは後にホセ・ルイス・ロマニリョスがFE17とナンバリングする事になる、壮年期のギター作りが精魂込めて仕上げた逸品だった。

 渡された楽器にまじまじと目を落とし、この筒はなんだろうと呟く少年に構わず「すまんが、お若いの。1曲聴かせてくれないかの、さあ」と、トーレスは促した。

「わかりました。では変奏曲を弾かせて頂きます」

 少年は調弦をし、オクターブを念入りにチェックすると、目を閉じた。一瞬の間の後、力強い和音が鳴り響き、石造りの工房を満たした。そして短い序奏の後、ゆっくりとフォリアの主題が紡がれると、トーレスは唸った。何年も眠っていたこの楽器が、信じられないほど滑らかに歌い出したからだ。少年の左手が縦横無尽に指板を駆け巡り、快活で技巧的な最初の変奏が鮮やかに流れ出ると、トーレスは今一度唸った。右手はわずかな動きだけで弱奏と強奏を弾き分け、無駄な動きは全く無い。それは正しくプロフェッショナルな演奏だった。

 そして何より驚いたのは、トーレスが知る様々な楽器で弾かれたフォリアの主題による変奏曲の中で、そのどれよりも優れた曲であったことだ。技巧的で多くの装飾が施されながらも完全にギターの生理に寄り添ったその音楽は、トーレスの心を掴んだ。

「ブラボー、パコ。素晴らしいわ!」

 6つの変奏の後、戻ってきた主題の最後の和音が左手で収められると、マルチネス夫人は興奮を隠しきれずに叫び、小刻みに手を叩き続けた。少年は少し照れたようにどうもと言って会釈し、トーレスに目をやった。

 確かに素晴らしかった。有無を言わせぬ凄演であった。これほどの名手を知らずにいたとは。トーレスは恥じ入った。

「ところでお若いの、あなたの名前をまだ訊いていなかったが・・・」

 少年はハッと顔を上げ、眼鏡の位置を直すと言った。

「これは失礼しました。タレガ・・・フランシスコ・タレガと申します」

 その瞬間トーレスの胸中で、全てが氷解した。

 長年の友人である名手フリアン・アルカスが舌を巻き、教える事など何もないと言わしめた少年ギタリストの名がフランシスコだった。そう聞いた覚えが確かにあった。今、目の前で超絶的な演奏をしてのけたこの少年がその人だったのだ。

 ギタリストは今弾いた楽器が甚く気に入ったようで、

「素晴らしい楽器です、セニョール。本当に素晴らしい。夫人、出来ればこちらの楽器を頂きたいのですが・・・」

 そう言いながらフランシスコは立ち上がると、マルチネス夫人の傍に寄り懇願した。

「もちろんよ、パコ。これはあなたにこそ相応しい楽器だわ」

 それを聞いたフランシスコは満面の笑みを浮かべると美しいギターを抱きしめ、僕のギターだ、と呟いた。

「ところでフランシスコ、今のフォリアは誰が書いたんだい」

 トーレスは尋ねた。あれほどの曲の作者を是非とも知りたかったからだ。

「今年の初め頃でしょうか、僕が書いたものです」

 トーレスは驚嘆した。アルカスの門弟であるこの少年は師を越えている。ギターを自在に扱えるだけでなく、それを十全に発揮出来る曲を書く能力が既にあるのだ。

 棺桶に例えられる黒く重いケースの埃を払い、ギターを拭き上げてそれに終うと、トーレスはフランシスコに手渡した。

「このギターはあなたにこそ相応しい。存分にお弾きなさい」

「ありがとうございます、セニョール・トーレス。大切にします」

 若きギタリストは差し出された手を握り返し、ギター作りは大きく頷いた。

 フランシスコ・タレガは、このギターを修理不能になるまで愛奏し続けた。そしてその後もトーレスを愛器とし、生涯弾き継いだことは言うまでもないだろう。

 

 この日の空は高く、青く澄んでいた。ギターを抱きながらセラへリーア通りの石畳を歩く少年の足取りは、今にも踊り出しそうなほどに軽かった。見送るギター作りだけが、この少年はいずれ音楽史の一部に成るだろうと確信していた。1869年、秋のセビリアでの事である。