嘘から出た真の美学 大林宣彦監督作品の残照
どうも。こんなことになる前に旅して来た者です。当然尾道にも寄っています。
新旧三部作から『転校生』『時をかける少女』『ふたり』『あした』に焦点を当ててロケ地巡りをしました。所謂「聖地巡礼」も尾道を訪れるのも初めてでしたが、心を震わす体験が出来ました。動画にまとめたのでご覧下さい。
便宜的に番号を振っていますが、だぶっている場所もあるので、都合30カ所ほどのロケ地を巡れました。今回の音楽は、所縁の曲を編曲してギターで弾いています。ピアノは弾けないもので。4作を振り返ってみましょう。
『転校生』1982年公開
この作品は、脚本・演技・演出が三位一体となって生まれた名作と言うことが出来るでしょう。主演した2人は文句なく素晴らしいですし、心と体が入れ替わってから「あるあるエピソード」を紡いで行く脚本も、おかしくも追いつめられて行く2人の心情を途切れさせる事がありません。この右肩上がりの緊張感が成功の大きな要因でしょう。
生まれ故郷をロケ地に選んだ監督の演出は、尾道を映した先達に大いに敬意を払い繊細です。時代の雰囲気を表しつつも「自分自身の尾道」を織り込んで行きました。それは「恥部」を公にしたと非難されることになりますが、完成直後に冷淡だった地元関係各位には、その後「ロケ地巡り」と称して押し寄せる観光客がもたらす恩恵は、予想出来なかったのでした。次作の撮影時には手のひらを返していたそうです。
ロケ地を観光地化した、テレビ局が出資した、など振り返れば邦画として非常に重要な作品となった『転校生』。当然大林宣彦の映画監督としての地位も確立される事となりました。
残念な点は音楽です。オリジナルの劇伴を創る予算が採れなかったため、既成のクラシックを使っているのです。積極的に使ったわけではないので、スコセッシ監督のように「歌ありき」で画をシンクロさせている訳ではありませんし(それに近い試みは『青春デンデケデケデケ』でされていますが)、使用曲も付けどころも悪くはないのですが、「測ったようにぴったり」とは言えないでしょう。この作品に限らず改めて思います。大林作品は「画」の力が強すぎるからか、音楽が印象に残る作品の数は限られているのではないでしょうか。最も音楽が効果を発揮しているのは『時をかける少女』かもしれません。
『時をかける少女』1983年公開
プロローグとエピローグが素晴らしい効果をもたらしている作品です。伏線と時代の空気感を表したプロローグが終ると、印象的な弦楽の演奏とともに当時からしても古い街並が映し出され、この地に登場人物たちが暮らしているリアリティが描き出されます。尾道のようで尾道でない。現代のようで現代でない。ギャル化が始まっていた80年代初頭に、主人公のように姿勢良く美しい日本語を話す女子高生は、地方ですら絶滅していました。況しては登場人物たちの昔気質の立ち振る舞いは、当時すでに過去の物となっていたのです。ですから荒唐無稽なファンタジーを展開するには、登場人物たちが確かに存在するのだというリアリティ・現実感は必要なことでした。
そして、この場所も時代もあやふやな世界は、普遍性を得る事に繋がったのです。この作品をいつどこで誰が観ても、自分の事と思えるような。
映画の為に与えられた再会のシーンは、切なくも儚く、ジュブナイルを締めくくるのに最高のエピローグとなりました。それに続く「ミュージックビデオ」を決定打として主演した原田知世はこの一作でスターになりました。それによってロケ地巡りも本格化し、地元のキャパシティを越えてしまう事になり、様々な問題が起きたのでした。
この作品の残照を求めるのならば、竹原市に足を運ぶことは必須です。芳山家から堀川醤油醸造所までの道程が、西方寺から醸造所まで残されていますし、通学路にして「瓦落ち」のエピソードが展開される胡堂もこの周辺が「たけはら町並保存地区」に指定されているので健在です。それどころか撮影時にはあった電柱が、地下に移設されていました。
尾道のロケ地は艮神社は安泰として、タイル小路は風前の灯でした。しかし大林監督直筆の「お願いの書」を目に出来たのは望外の喜びで、それはまるで歴史上の人物の書簡を観るような感覚に陥りました。ありがたいので拝んでおきました。
『ふたり』1991年公開
主人公が不幸に見舞われ続ける作品です。姉が亡くなる。母親は精神を病む。父親は浮気。自身はいじめられている。この時点で四重苦ですが、さらに親友のお父さんが亡くなる。友人は自殺未遂するなど、主人公は中学から高校にかけて散々な目に遭い続けます。そして物語は大団円を見ることなく終るので、決して後味の良い物ではありません。
今回最もロケ地が残されていたのが『ふたり』でした。この作品を目当てに尾道へ足を運ぶのならば、間違いなく大きな満足が得られるでしょう。特に印象的な電柱や事故現場は無くなり様がないので、浄土寺や向島大橋とともに今後も安泰と思われます。
『あした』1995年公開
個人的には「大林宣彦監督作品ベスト10」の上位に位置する作品です。群像劇ですが主演は植木等だと考えて観ています。死んだはずの人が幾人も出て来るのに、怪談にもホラーにもなってはいません。それどころか人っていいな、生きるっていいな、と思える作品です。
生と死を描いているのは『ふたり』と同様ですが、ファンタジーの要素は少なく、より直接的で、素晴らしく映画的であり、原作から変更されたタイトル『あした』がよくよく頷ける作品です。一晩の出来事が夜明けに終わり、集った誰もが希望を持って「あした」に踏み出して行くのです。
架空の浜辺「呼子浜」は私有地で、実船を使った「呼子丸」は廃船となり、主な舞台となった連絡船待合所が形を変えて現存するのみなので、ロケ地巡りとしては寂しい結果となりました。それでも待合所はバスの待合室として活用されているので、今後もあり続けてくれそうです。今では由来を知らずに利用する人も多いのでしょうね。
尾道は不思議な町でした。端的に言って、線路を挟んで海側は開発され、山側は取り残されているのですが、双方が観光の為にそうしていると思えたからです。
海側は駅と市役所を中心として開発が今も進んでいます。整備された海辺で楽しんでもらう為の「おもてなし」です。
山側の斜面地は駅から尾道大橋の手前、浄土寺くらいまでが、観光客の期待する「尾道」として残されていますが、かなり強引な部分も見られました。これも観光客の期待を裏切らない為の「おもてなし」だと思われます。
『東京物語』に映し込まれていたように、かつては海側も線路に至るまで瓦屋根の家並みがありました。山側の斜面地も、いずれは残すものと残さないものの選択を迫られるのでしょう。だからこそ映画という意志を持って残される時代の風景は、宝物になるのではないでしょうか。
この地に出会えた高揚感と、念願が叶ったことによる充実感で満たされた旅でした。また一つ心残りが減りました。
「映画作家」大林宣彦監督に感謝するとともに、ご冥福をお祈り申し上げます。