あ〜さんの音工房

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15メートル先の栄光


「おい、あいつ見とけよ。泳げないんだぜ」ゲスい笑みを浮かべながら近所のガキが言った。隣の友人らしき奴に言う体で、わざとぼくに聞かせたことは明らかだった。あの野郎、2年生のくせに。ふざけんじゃねえ。


 1年と6年。2年と5年。3年と4年。1学年400人からいたのに、なぜだかこの組み合わせで水泳の授業があった。どうやって800人一緒に入ったんだか。夏休みの事だった気もするが定かではない。
 体育は苦手ではなかったし、球技なら得意ですらあったのだけれど、泳げなかった。1クラス50人いた当時は、出来なくても待ってはくれなかった。出来るまで手取り足取り教えてくれることもなかった。落ちこぼれたぼくは、5年生になっても泳げなかったのだ。その日も順繰りにプールの短辺を行ったり来たりしていたが、けのびを繰り返して誤摩化していた。


 そのゲス笑い糞野郎には「狂犬」の名を欲しいままにしている中学生の兄がいて、その衣を借りて幅を利かせていた。だからって2年生になめられる訳にいくか。泳いでみせて、ぎゃふんと言わせてやる。泳げた事ないけど。
 降り掛かった火の粉は自らの手で払わなければならない。それが子供たちの掟だ。嫌な事を『復讐ノート』に書き込んでみてもなにも始まらない。その場その場で対処出来なければ以降なめられっぱなしになるんだ。そんなの嫌だ。ふざけんじゃねえ。
 突然の災厄に狼狽えたものの、ぼくは経験値は乏しいが今よりは錆び付いていない脳に「泳ぐとは?」と検索ワードを入力した。出番までの2.5秒で出した答えは、とりあえず浮かんでみる→バタ足する→前進するんじゃね?=泳ぐでしょ!? だ。


 笛が鋭くスタートを告げた。ぼくは両足で壁を強く蹴った。なんとしても向こう岸へ辿り着かなければならない。
 浮かんだ。バタ足をした。進むが遅い。息継ぎなんて出来やしないので、このままやりきるしかない。25メートルプールの短辺がとてつもなく長い。水の中はごうごうともの凄い音がしている。目が痛い。息が苦しい。だが、ぼくは怒りに燃えていた。なんだよ、ぼくが何したってんだ。お前の事なんか気にもしてないのに突っかかってくんなよ。2年生くんだりが面倒くせぇんだよ。兄ちゃんがいなけりゃ何も出来ないくせしやがって。せいぜいクラスで虚勢張っていやがれ。ぼくを巻き込むなよ。ふざけんじゃねえ。
 ぼくは足を着き、大きく息を吸い込むと、ずぶ濡れの犬より激しく頭を振った。そして顔を両手で拭うと、プールの縁に手をかけ、上がった。


「あの人泳げるじゃん」
「あれぇ、おっかしいなぁ・・・」


 辿り着いた対岸で全身で息をしながら屹立したぼくは、15メートル後の糞ガキどもをドヤ顔で見下してやった。以来ぼくは泳げるようになった。クロールだけだけど。
 見たか、2年生。5年生なめんな。ふざけんじゃねえぞ。