あ〜さんの音工房

アーカイブはこちら→http://akeyno.seesaa.net/

再掲載祭り=2011年03月04日分

 

 続きまして、高校生の頃地元にやって来た『ミスDJ』の公開録音の時の顛末をどうぞ。

 

 追憶ミスDJ

 

NHK「SONGS」に

稲垣潤一が出演していた。

1曲目「ドラマティック・レイン」を

弾き語りならぬ叩き語りで披露していた。

この光景は直に見た覚えがある。

懐かしいな。

 

「聞いたかよ、ミスDJ町田に来るんだってよ!」

 

ミスD J リクエスト・パレード。

深夜のラジオ番組だ。

月ー金の帯で日替わりで女子大生

D J のマネ事をして流行の曲をかけていた。

80年代初頭のことだ。

 

「マジで? どこに来るんだよ?」

「東急の屋上で公開録音するんだってさ!」

「何だって!? それは聞き捨てならないな!」

「行こうぜ、あ~さん!」

「もちろんだ! それで誰が来るんだ?」

「5人全員来るらしいぜ!」

「なぁにぃ~、やっちまったな~!!みんなぁ、集合しろ!作戦会議だ!!」

 

その週末我々は当然出かけた。

せっかくだから良い席で見たかったので

かなり早く着いたと思う。

ミスD J は人気番組だった。

 

屋上には舞台が組まれ

パイプ椅子が並べられていた。

我々は早速席取りしたが

最前列には『予約席』と

手書きされた紙っぺらが貼られていた。

今で言うオタクのお兄さん達の仕業だ。

どんだけ早く来てんだよ。

 

ミスD J 達の姿はまだ見られなかったが

舞台上ではゲストミュージシャンが

リハーサルをしていた。

 

「叩きながら歌うんだな、稲垣潤一って」

 

ドラマティック・レインを歌う

彼の姿がそこにあった。

番組ではデビューしたばかりの

稲垣をプッシュしていた。

当然この曲を

ヘビーローテーションでかけていた。

だからこのイベントに参加しているのも

なんの不思議もなかった。

 

私はプロのリハーサル風景を

見るのが初めてだったので

興味深く眺めていた。

随分大掛かりなんだな、そんな印象を持ったと思う。

プロのステージに接するよりも早く

自身がステージに立っていた私は

当時モニターが何なのかも

良くは解っていなかったし

楽器が揃っているだけでも

大喜びしていた位だったから。

 

いつの間にか立ち見まで出ている

町田東急屋上特設ステージに

5人のミスD J が登場し

華々しく公開録音が始まった。

しかし今となっては5人の名前が出てこない。

覚えているのは

火曜担当 川島なお美

金曜の チクラマリの2人だけ。

チクラマリは響きだけだから1.5人か? 

顔は思い出せないし。

 

収録中は出演者と観客の間で

コール&レスポンスもあったので

「大声出して目立ってみようぜ」とか

「変な事すると編集で切られるぞ」とか

「とりあえず前に出て踊ってみようか」とか

 

そんな会話をした様に思うが

馬鹿な事して摘み出された覚えは無いから

適当に賑やかしただけだったんだろう。

我々は良心的な馬鹿の集まりだったから。

 

あの時眩いばかりに輝いていた

ミスD J 達は今どうしているのだろう?

あの頃がピークで

しょぼくれた人生送ってないといいんだけど・・・

 

変わるもの、変わらないもの

変わって行くもの、変わらなくて良いもの

人生いろいろ

人の記憶もいろいろだ。

ミスD J のイベントだったのに

覚えているのは歌っていた稲垣潤一の姿だけだ。

あれから四半世紀経った今も

稲垣は歌い続けている。

あの時の歌を、あの時のように。

 

 

 町田の駅周辺は大丸しかなかった頃から記憶しています。その後ミドリ屋(後のジョルナ)そして小田急の駅ビルが出来て・・・東急、丸井、東急ハンズは同じ頃次々と開店したのでしたかね。

 次は母さんが温泉旅行のついでに寄ってくれた時に思い出した事を。

 

 

 嫉妬

 

母さんが温泉に行って来たそうだ。

五十年来の友人と一緒に。

私はそこまで年取っていないから

五十年来の友人なんていないけど

随分長く続いているねと尋ねてみたら

 

年賀状だけは出していたのよ。会えない時期でもね」

 

私は六年生の時に引っ越した

クラスメイトの山寺くんに

年賀状を出し続けていた。

確か十九の時まで。

会いに行ったことは一度しかなかったけれど。

 

その頃

歴史と図画工作が

クラスで一番であるということが

主要科目は国語以外からっきしダメだった私にとって

大切なモチベーションだったが

それを脅かしてくれたのが山寺くんだ。

歴史は彼がいる間は常に二番手だった。

私は授業で習い始めてから興味を持ったのだが

彼はそれ以前からとても詳しかった。

私達のクラスには

後に麻布中学へ進学する秀才もいたが

目じゃなかったよ。

私達の方がよほど知識があった。

『熱中夜話』で語れる位にはね。

 

図画工作に関しては

あの時までは気にもしてなかったよ。

クラスや学年レベルでの話だったけど

私は常にスポットライトを浴びていたからね。

図工の時間は独壇場だった。

でも、あの時だけは違った。

 

それは前の席の人の肖像画を描けという課題だった。

私は喜び勇んでスラスラと描いた。

天パの髪は筆を擦れさせて感じを出したし

Tシャツの藍色も絵の具を混ぜて再現した。

いつも通り

私の周りには人だかりが出来ていた。

だけど

ひと際賑わっている所が別にあったんだ。

山寺くんだ。

 

彼は水沢くんを描いていた。

その少し凹んで左右不釣り合いな目や

野暮ったい髪の感じを

カリカチュア寸前にまでデフォルメして

その人物像をあぶり出していた。

山寺くんは人の内面を描いてみせたのだ。

それに比べ私が写したのは外観に過ぎなかった。

どちらが優れているかは

誰の目にも明らかだった。

私は負けたのだ。

 

自分史の中でこの出来事は

初めての完敗だった。

自身が得意なことで負けたんだ

ぐうの音も出なかったよ。

私はそのとき初めて嫉妬した。

燃え盛る炎の様に激しく

彼の才能を羨んだ。

だからと言って

上履き隠したりしなかったけどね。

 

山寺くんは世田谷に引っ越したんじゃなかったろうか?

だとしたら私も住んでいた時期があったので

旧交を温めることが出来たなら

今でも友人であり得たかもしれない。

そうだとしても私は彼と一緒に

温泉に行ったりしないだろうと思う。

しないだろうな・・・・・

 

この一件は

近頃記憶が曖昧な私にしては

かなりはっきりと思い出せる。

それほど大きなインパクトがあったという事なのだろう。

その後私は

いろいろな人達に負け続け

とても打たれ強くなって今日に至っている。

あぁ、そうか。

打たれ過ぎて記憶が曖昧になっているのかもしれないな。

きっと、そうだ。

 

 

 こうしてみると昔話とエッセイって境があいまいだ。最近の出来事に関して書いたらエッセイ、記憶を辿って懐かしみながら書いたら昔話なのかな・・・

 さて、そろそろ文章以外の趣味を紹介しましょうか。