あ〜さんの音工房

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これまでの『あ〜さんの音工房』西川美和関連編

 映画監督にして作家でもある西川美和に関する記事を集めてみました。まずは、映画『ユメ十夜』のレビューをどうぞ。



 夏目漱石の小説を10人の監督が映像化


第一夜  監督 実相寺昭雄

     脚本 久世光彦

     小泉今日子 松尾スズキ


第二夜  監督 市川崑

     うじきつよし 中村梅之助


第三夜  監督脚本 清水崇

     堀部圭亮 香椎由宇


第四夜  監督 清水厚

     山本耕史


第五夜  監督脚本 豊島圭介

     市川実日子 大倉孝二


第六夜  監督脚本 松尾スズキ

     阿部サダヲ TOZAWA


第七夜  監督 天野喜孝 河原真明

     Sacha 秀島史香


第八夜  監督 山下敦弘

     藤岡弘、


第九夜  監督脚本 西川美和

     緒川たまき ピエール瀧


第十夜  監督脚本 山口雄大

     脚本 加藤淳

     脚色 漫☆画太郎

     松山ケンイチ 本上まなみ


プロローグ エピローグ  

     監督 清水厚

     戸田恵梨香


 話題にならず、興行的にもみるところが無かったのには理由があるはず。漱石の作品を名だたる監督、キャストが作り上げたのに何故なのでしょう?


ベテラン振るわず


 実相寺監督、市川監督共にいつものレシピでつくったので、それなりの出来にしかなりませんでした。 良くいえば安心してみられる、悪くいえば面白味のない。


中堅ぐずぐず


 清水崇監督、松尾監督は時間がとれない中やっつけた模様。 悪くはないけれど。 清水厚監督は、幻想的な不条理劇を目指したが、BS2で集中放送されている押井守作品と比較しても弱すぎる。


敬意を払え


 その他は漱石の原作である必然性が全くなくなっている。 逸脱しすぎ。 原作だぞヒントじゃないんだ『夏目漱石』というたがを外してしまった事でこの作品の成功は無くなってしまいました。 なんの為の『漱石』なのでしょう。


美和とたまき


 第九夜 西川美和監督作品だけは例外。 唯一輝きを見せている。

 おそらく太平洋戦争末期、出征前夜妻は夫にしがみつき、赤紙を破り捨てる。 血に染まってゆくその切れ端は秀逸な演出だろう。 そして夫の無事を願う妻は御百度参りをはじめる。


草履を脱ぐ たまき
手を合わせる たまき
けつまずく たまき
水を被り濡れる たまき
石畳の上で呆然とする たまき


 緒川たまきと西川監督が参加していなかったら何の見所も無かった『ユメ十夜』 逆に言うと、この作品全体が西川監督の能力をあからさまに世に知らしめる為のプロモーションとして機能している、とも言えるでしょう。 

 「自分のものは非常にオーソドックス」それで良いのでは? 原作を読み込み、作者に敬意を払った跡がみてとれます。『夏目漱石』という枠の中でも個性を発揮している西川監督こそ真の才能でしょう。



 みなさんも自分の眼で確かめてみて下さい。





続いて映画『ゆれる』のレビューをどうぞ。




 ゆれる


 極彩色で個性をアピールするのは簡単ですが、普通に撮ってこれほど個性を出すのは難しい。それを実現してしまう西川美和監督の才能は眩いばかりです。

 タイトル『ゆれる』は内容をとても良く表してはいますが少し弱いかもしれません。橋もゆれるし画もゆれる。勿論人の心もゆれますが、観賞後にはこれしか無いのだと納得することになるでしょう。

 開始早々に主人公(オダギリジョー)の人物像が鮮やかに描かれるとともにアメ車のエンジンが一発でかかりませんが、これは結末に至る重要な伏線となっています。素晴らしい滑り出しです。
 もう一人の主人公(香川照之)も登場シーンでその性格が明らかにされていますが見事な演出にホレボレとします。

 この作品は三角関係の恋愛ものでは全く無く、西川監督は人を、人生を描いています。


素晴らしいぞ西川監督 構図


 この人は写真の素養があるのではないでしょうか?固定カメラでの構図は見事に計算されていると感じます。それは「絵の様な」ではなく、一見ごく普通です。
 食卓を撮るのに左側を棚で見切らせアンバランスに狭くして手前の電話を鳴らしてみせますが、そのぎこちのない奥行きのある画が人物の心情を見事に表しています。
 ストーリーにより必然的にロケが多くなっていますが、全く無駄がありません。アニメーションと違い実写の場合不必要な物、写したくない物が撮れてしまう事がありますが、西川監督はそれらを注意深く避けていると思います。この辺りは女性的と言えるのではないでしょうか?


素晴らしいぞ西川監督 エグイ演出


 主人公の兄弟の実家のガソリンスタンドで給油口にホースを挿入する画が示されますが、それは男性器と性行為の象徴です。今どき実にエグイ演出です。しかし、それが下品で浮いてしまうかと言えばそうではないのです。
 また2人の間でゆれる女性が(真木よう子)橋から落ちて流されますが落下シーンは無く、暗闇を靴だけが流れて行きます。これもエグイ。エグイというよりも古典的と考えるべきかもしれません。


好きにさせてやれ


 鮮やかにカット・アウトして終わる結尾部まで観る物を魅了して止みません。もちろんジェットコースター・ムービーでは無いので展開が速いとか、劇的な事が続くという事はありません。むしろそれを避けていると感じます。
 かといって一つひとつを丹念に描き過ぎ、流れが滞る事はありません。この辺りのさじ加減が絶妙です。

 私は鑑賞中に何度か声を上げて唸りましたが、この作品は観終わった後に拍手をするよりは腕組みをしてしまうと思います。特に同業者はそうでしょう。それほどまでに本作は凄みを放っています。そして、それは全てが西川美和監督の手腕によるものです。世評通り確かに演者は素晴らしいですが、交代は可能でしょう。しかし、監督の交代は不可能です。

 西川監督は自ら脚本を書き監督する事が非常に重要なのではないでしょうか?本人もそれを望んでいると思います。良いプロデューサーを付けて「金は出すが口は出さない」状況で好きに撮らせるべきと思います。良い物が出来るに決まっていますから。

 これほど明らかに自らの才能を示している映画監督は稀です。期待せずにはいられません。



 最後にNHKで放送された『太宰治短編集 駈け込み訴え』のレビューをどうぞ。



星新一ショートショートの映像化の
望外な成功に気を良くしたNHK
昨年取り組んだのが「生まれて、すみません。」でお馴染み
太宰治短編集だ。
それらは、年末に一気に再放送されたが
一番始めに置かれたのは『駈け込み訴え』
西川美和監督作品だった。
NHKは本放送前にPR番組を作る程の力の入れようだったのだが
果たしてそれは、身震いするほどの傑作に仕上がっていた。


   *


『駈け込み訴え』解説


師イエス(極度のツンデレ)を愛するが故に思い悩む
弟子ユダ(完全なるM属性)の心の揺らぎを独白を通して描く
「生まれて、すみません。」と自ら公言し自殺未遂をくり返す
M者太宰の聖書再解釈。


邦人キリスト教文学の最高峰と目されるこの作品だが
やっていることは『カチカチ山』と変わりはない。
西川はいかに料理したか?
朗読+映像+セリフを柱として創り上げていた。

朗読は原作から大胆に抜粋されているが
それを補完する為に映像があるわけでは無く
朗読は物語を進行する為のガイドとして利用されている。
設定は現代に
登場人物達は女子高生に置き換えられているが
そのためにセリフが与えられている。

ここまでは驚くに当たらない。
ユダとイエスは同い年=クラスメイトという発想さえあれば
昨日、残念作が放送された矢口史靖監督であろうとも
ここまでは来れるだろう。
不可侵なのはこれから先なのだ。


この学校では夏の課外授業として
ボランティア活動が組み込まれているらしい。
冒頭、師と弟子達は募金を呼びかけている。
募金は偽善の象徴として描かれ
弟子達は内申点欲しさに熱心に取り組んでいるが
主人公ユダは姿が見えない。
その時ユダは着ぐるみに包まれている。
場違いな水色のネズミは皆の輪から離れた所でおどけてみせているが
それが本意でない事は明らかだ。
そしてネズミは盗撮者から愛するイエスを身を挺して守る。

この序章とも言えるシーンで西川は描いた。
明らかな主従関係と狂おしいまでの愛情を。
そして、これは、西川美和の『駈け込み訴え』であると宣言するのだ。


西川は原作を朗読を持って組み込んでいるが
およそ25分という時間制限をも味方につけて
周到に編集、省略をしている。
そして、それを現代に置き換えた舞台と
反転させた性別に違和感を与える事なく馴染ませている。
さらには原作の朗読に作品の案内をさせているのだ。

映像作品とは「画」なのだ。
それを無視する事はできない。
視覚がどれほど支配的なのかは
こんな例からも伺えるだろう。


弦楽四重奏をホールで聴くとする。
下手にバイオリン、上手にチェロが並ぶので
目を開いて見ている限り音像もそのとおりに定位する。
ところが目を閉じると
全ての楽器は中央から聴こえて来るのだ。
ホールの反射がそうさせるもので
実際に4つの楽器の響きは渾然一体となって、ほぼ中央に定位している。
しかし目を開いて楽器の位置を確認していると
第一バイオリン、第二バイオリン、ビオラ、チェロと
並んで聴こえてしまうのだ。
このことは我々がどれほど視覚に支配されているかを
端的に示している好例だ。


西川作品を観て思うのは映像の力強さだ。
派手だとか、色合いを弄くってるとか、カットを重ねて観る者を煙に巻くとかいう表層のことではない。
本質的な力強さが漲っているのだ。
それは画面の隅々まで行き届いていて、抜かりない。


ところで、昨年放送のこの作品をなぜ書き留めなかったか、だが
夢十夜』の時は漱石はほとんどを読破していたので
ためらいなかったが
今回の太宰は全く未読である事。
そして、これほどの作品ならば
すぐにネット上に比較論などが溢れるだろうと考えたからだ。
太宰に暗く、キリスト者でもない私は
この作品や太宰に深い愛情を持つ野良文士たちに
分け入る気力がなかったのだ。

そんな私の背中を押してくれたのが昨日放送された残念作
ハッピーフライト』だ。
途中で観るのが辛くなるほど拙かった。
なぜなら、それは箇条書きの映像化のような仕上がりだったからだ。
「画」の力は蔑ろにされていた。
この作品はラジオドラマとしてなら成功した可能性があったろう。
あるあるエピソードを誇張し繋げただけの脚本。
説明に終始するセリフ。
出演者達は演じる術を持てないので手持ち無沙汰だ。
これでは映画である意義がない。

西川を筆頭にこの短編集に参加した様な
素晴らしい映像作家達がいる一方で
残念作を作り続ける者もいる。
それらを楽しむのを止めはしないが
その遥か先を行く作品群に是非とも目を向けて欲しい。

このことが私のモチベーションとなって
今になってこの作品について書き留めている。


   *


『駈け込み訴え』は朗読と教師役を担当した
負け犬役ならおまかせ、でお馴染みの香川照之以外は
ほぼ10代の少女たちばかりが画面を満たしているが
初めて観るこの者たちの演技水準は極めて高い。
今時は驚くほど上手にこなす子役達も多くいるが
この作品に関しては西川の演出力によるのだと考えたい。
かなり細かい指示が出ていると思う。
それを見事に演じた少女達は立派だが(特にユダ役)
逆に西川が演出したからこそ成立したのだと
考えるべきなのかもしれない。


昼間、海辺のゴミ拾いをしている最中(ボランティアの一環)
エスはユダの名を呼び2人だけの時間を過ごしてくれる(デレのターン)
ユダはイエスとその母マリアと共に暮らせないかと夢見るが
同時にイエスを自分のものにしたい
他人に手渡すくらいならこの手で殺してしまいたいほど
彼を愛しているのだと再確認する。

その晩のイエスと地元の若者との情愛シーンを
西川はエグさ全開で映像化している。
セリフ一切無しの映像の力に頼ったシーンだ。
嫉妬に燃えるユダは一部始終を携帯電話で盗撮する。


エスが激怒するシーンも秀逸。
原作ではエルサレムの宮に到着したときのエピソードだが
祭りの沿道で少女達は資源ゴミの回収を呼びかけている。
ボランティア活動の一環として。
そこを通りかかった愚衆が飲みかけのペットボトルを捨てる。
困惑する弟子からペットボトルをむんずとつかみ取ると
エスは愚衆にそれを投げつける。
何度も投げつけながら罵る。


「ゴォラァ!捨ててんじゃねぇぞボケェ!中身を飲みきってすすいでからキャップと本体を分けねぇかクズ野郎!ゴミ箱じゃねぇんだぞ!!」


西川はセリフを排し狂ったように鳴く蝉の声だけを残して
あとは映像に任せているので上記のセリフは推測だけれど
その映像の中からはハッキリと
エスの掴み掛かる様な怒号が聴こえて来る。
そして着ぐるみの中のユダは再び携帯を向け動画に収めるのだ。
エスを売る為に。

このパートはかなり苦心してひねり出したのではないだろうか?
祝祭的な雰囲気の中での募金とゴミ拾い以外のボランティア・・・
本来なら人の多いこのシーンでこそゴミ拾いが妥当だと思うが
海辺のデレシーンは必須なので、あちらに使うしかない。
かと言ってなんらかの署名や募金でイエスを激怒させるのは困難だ。
周到に配された演出と共にこのシーンは秀逸だと思う。


そしてイエス

「おまえたちのうちの、一人が、私を売る」

と宣う最後の夜を迎えるが、西川は弟子達の足を洗う替わりとして
エスに足の指にペディキュアを施させている。
これは設定に寄り添った見事な変換だといえるだろう。

「みなが潔ければいいのだが」

心の内を見抜かれたユダは
まだ乾ききらない足先を拭う。
パンではなく一対のサクランボを二つに分けて(当然決裂を含ませている)
エスはユダの口に押し当てる。
それを拒んだユダは逃げるように駆け出す。


潰れたサクランボのエグいインサートなど
大きくユダの心情が振れるクライマックスシーンでも
西川の演出は鉄壁。
非の打ち所がない。

ユダは教師の元へ駈け込み
自らの携帯を差し出し例の動画を見せるが
黙殺されてしまう。
そうだ、あの人は特別なのだった。

途方にくれ惨めに夜の街をうろつくユダに男がぶつかる。
それは、あの時の盗撮者だった。
ユダは男に動画を売る。
あの人の息の根を止める為に。


この男は動画を独りで楽しんだのか?
それとも、投稿サイトにアップしたのか・・・
投稿された動画がイエスを殺し
それを売ったユダもまた死んだのだと私は考えるが
その後のことは
私達ひとりひとりに任されている。


   *


『駈け込み訴え』を筆頭にこのシリーズも大成功に終わっているが
残念ながらNHKはオンデマンド配信していないようだ。
『カチカチ山』『グッド・バイ』などM属性の貴兄には観逃せないし
『女生徒』『きりぎりす』の叙情性も是非体験したいところだ。
ディスク化が待ちきれない人も多い事だろう。
あの傑作朗読映像『とかげ』に勝るとも劣らない作品ばかりなのだから。


次回はまた別の事を。