あ〜さんの音工房

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Chaconne for Guitar Alone

 


 初めてギターに出会ったのは中学2年生13歳の時だ。クラス替えがあって新しく出来た友達が「俺たちギターやってんだ。見に来いよ」と誘ってくれた。家まで行ってみると、2人でジャカジャカと弾いてみせてくれたそれは、スチール弦の張られたフォークギターだった。そして彼らは音楽がどれほど高尚な趣味であるかを説いてくれたのだった。興味を持った私は「おらもギターが弾きたいぞ。買ってくれろ」と親に頼んでみたら、何故だか気前良く買い与えてくれた。それが1度だけ「叩く」のに使ったモーリスギターだ。丈夫にもほどがある。
 夏休み前に手にして、休み明けにはジャカジャカ出来るようになり、秋には文化祭で弾いていた。それを見た隣りのクラスの人から「バンドやろうぜ」と誘われた。トントン拍子に話は進み、その年のクリスマスには先輩のバンド3組と同学年のバンドと一緒に体育館のステージに上がっていた。スポットライトを浴び、紙テープにまみれた。ろくな演奏ではなかったが、体育館は満席で大評判になった。「盗んだバイクで走り出す」より断然こっちだと思った。以来今日に至るまで(断続的にではあるが)野良ギタリストであり続けている。


 当ブログでも何度か書いているが、私は音楽の楽しみ方は「聴く・演る・作る」の3つあると考えている。聴くだけに留まらず演奏を楽しんでいる人は多くいるし、「作る」と言うと大げさに考えがちだが、ジャズ=即興演奏は「作る」だし、ロックのアドリブやクラシックの装飾も「作る」だ。それに何かしら楽器が出来れば歌(旋律+伴奏)を「作る」のは容易いことだ。我々アマチュアに制約は多いが、3つとも楽しめない理由はない。出来る範囲で3つとも堪能したいと思っているし、実際にそうして来た。


 演奏は演奏者の意志がどれだけ表されているかが重要だ。ミス無く弾けましただけでは調教されていないボーカロイドと変わりはない。プロ・アマ問わず、弾けているが何の感情も呼び起こさない演奏はいくらでもある。プログラムされたように正確で素晴らしいと言われるより、あまりにも恣意的だと罵られる方が増しだ。
 例えばバッハを弾いていて「誰の編曲か?」と訊かれ自分の編曲だと答えると眉をひそめられる事がある。私には全く理解出来ない感情だ。反対にプロは自分の編曲以外で弾いているとそうされるのだろうが、アマチュアが自分自身で編曲してなにが悪いのだ。編曲するところから楽しんでなにが悪い。著名な演奏家や偉い学者の先生たちの編曲でなければと考えるのは前時代的な権威主義に他ならない。こちとら趣味で楽しんでいる野良ギタリストだ。専門的な音楽教育を受けていないし、ギターの弾き方を習った事すらない。
 それではバイオリニストはストラドやグァルネリを手にしなければ音楽の深淵に触れる事は出来ないのだろうか? 野良ギタリストは音楽の無限大の彼方へ辿り着けないのだろうか? 「闘う君の歌を闘わない奴等が笑うだろう」。確かにそうなのかもしれない。だが、望む権利は誰にでもあるはずだし、それを止める権利は誰にもないはずだ。


 昨年、野良ギタリストとしての矜持とは何ぞや? と考える機会があった。プロが名演を披露してくれているのに、なぜ自ら苦労して弾くのか? 享受するだけでは駄目なのか? なにより素人が演奏する意義はあるのか? という疑問も持った。それを問う為に選んだのがこの曲『シャコンヌ』だ。野良ギタリストには敷居の高い難曲を(プロが実演や放送録音でヘロヘロになっているのを何度も目の当たりにしている)自分自身の編曲で弾き切ることが出来たなら、答えが出るのではないのか? 1年かけて試みようと決めた。


 長期に及ぶ計画だったので、モチベーションが落ちかけたこともあった。それは楽器の限界に気づいた時だ。3月の終わりまではヤマハの量産品を使っていたが、長調アルペジオの手前193小節から始まる高音域での和音の変奏で、音程が高くなるにつれて大きな音で弾きたいのに楽器が応えてくれなかった時には困った。どうやっても鳴らないのだ。仕方ないので録画の時には誰かから借りようと思った。そんな時、天の配剤が起きた。一流ギター製作家が手を差し伸べてくれたのだ。
 この年末年始で、長年お待ちのみなさんの元へオーダーしたギターが届いた(届く)ので、私の愛器「レイちゃん」の真相についても記したい。この楽器はある方が中野潤氏にオーダーしたのだが、訳あって弾く事が叶わなくなり、製作を中断されていた物なのだ。その2011年からペンディングされていたギターを今年の私の誕生日に合わせて仕上げてくれたのが「レイちゃん」だ。割り込んだ形になるので、長年お待ちのみなさんの手前お知らせ出来なかったのだが、やっと書けちゃうのだ。「君と出会った奇跡が この胸にあふれてる きっと今は自由に空も飛べるはず」。手にするとそんな気分になれるギターだ。特徴のある仕様なので、オーダーした本人が見れば一目瞭然。あなたのギター引き継ぎましたよ。普通のおじさんの3倍の勢いで愛でてます。ご安心ください。
 このギターなら高音域でもフォルテの表現が可能だ。なのでモチベーションも保てた。が、懸案だった短調アルペジオ手前87、88小節での(高音域での)「曲中最速でありたいスケール」は87小節は見事にスカスカだ。こすりまくって鳴っていない。ここも大きな音が欲しかったところだ。続く88小節は考えを変えて、速過ぎない速度で大きくない音量で弾いている。アルペジオは静かに始めたいのでそれに繋げた。運指も変更して無理をしなかった。
 この長いアルペジオは最も思い通りにならなかったパートだ。初めは全く弾けなかったので、それを思えばまずまずと言えるが、この曲でベースの打ち間違いは頂けない。弾けなかった理由ははっきりしていて、クラシックギターアルペジオを弾くのが初めてだったからだ。せいぜい『月光』くらいしか弾いた事はなかったのだ。このパートは段階的に音の並びを変えると決めていて、当初は福田進一氏が2度目の録音で行ったように、ヴァイオリニストのパターンを踏襲しようとしていた。ところがとても手に負えなかったので、弾けるようにと考えた直したのだが、実施は困難を極めた。前記したようにアルペジオをしたことがないので、出来る事と出来ない事の判別が出来なかったからだ。なので出来るはずに作って練習を重ねた。
 最後のアルペジオからのスケールは薄氷を踏むがごとくだ。ここのアルペジオは鬼門で、短いが毎度毎度へろへろになる。疲労に加えて焦りと緊張で手が思うように動かなくなるのだ。なんとか持ちこたえてスケールを弾ききれたのが不思議なくらいだ。前半と中後半を分割して撮影すればそれは防げただろうが、この期に及んでその選択肢はなかった。


 『シャコンヌ』を弾くに当たって、自分で編曲譜を「作った」のがやり遂げられた最大の理由だ。セゴビアを初めプロギタリスト達の編曲では何年経かけても結果は出なかっただろう。それに師匠がおらず様式云々をとやかく言われなかったのも大きい。楽器を提供してくれた一流ギター製作家中野潤氏にも感謝したい。おかげで最後までモチベーションを保てた。弾き手と機材のせいで、音色が今ひとつなのが申し訳ない。



 それではご覧頂こうか。汗と涙と意地の結晶を。かけも掛けたり丸1年。弾きも弾いたり17分超。これが野良ギタリストの矜持だ。


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